養源院
番外
寺名 養源院
山号 南叡山
宗派 浄土真宗遣迎院派
所在地 京都市東山区
蓮華王院(三十三間堂)の東向かい。
SPOT
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山とする。
その後、元和5年(1619年)火災により焼失する。
元和7年(1621年)、徳川秀忠の正室・崇源院(浅井長政の三女、淀殿の妹)の願により伏見城の遺構を移築して再興された。
東福門院(徳川秀忠と崇源院との娘・徳川和子、後水尾天皇に入内)の要請で兄の3代将軍家光により守られ、歴代京都所司代のお役目に引き継がれれていく。
豊臣家によって建てられ、徳川家の菩提寺になるという、不思議な運命を背負うことになる
2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
江戸時代の養源院は、一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた。誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。
血天井 関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城攻防戦で鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し,最後に自刃(380余名)した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る
鶯張廊下
江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が造ったものと伝わる。
襖絵と杉戸絵
俵屋宗達作の(重要文化財)があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられている
2006.7 往訪 2010.4再訪


Snap shot
山門を入った所 本堂は、元和5年(1619年)に破却された伏見城の殿舎を移築したものとされる。
枝垂れ桜は盛りを過ぎていた。
鐘楼 本堂から山門に向かって


俵屋宗達作の杉戸絵 重要文化財
旧法では、国宝だったので周辺の表示は国宝のままになっている。
白象図
波と麒麟図
松図 襖絵
片側は修復中であった
唐獅子図
玄関にある。左の獅子は、八方睨みと言われる。
右の獅子を同じ形にしなかったのが素晴らしい


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