松尾寺
(まつおでら、まつおのでら、まつおじ)
番外
寺名 松尾寺
山号 阿弥陀山
宗派 天台宗
所在地 大阪府和泉市松尾寺町
和泉西国三十三箇所第21番
役行者霊蹟札所
SPOT
山門
山門は1705年(宝永2年)の建立で、釘は1本も使われていない総楠造り。左右に持国天、増長天、楼上に文殊菩薩を安置する。

672年(天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まる。その後、泰澄(たいちょう-奈良時代の修験道の僧)が中興し、熊野、吉野、白山の権現を勧進した。

平安時代には当寺に住んでいた河内国の僧尋祐にまつわる奇瑞が『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに記されており、鎌倉時代には源頼朝が祈祷所として保護している。

松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町大字高野山)攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。

現在の松尾寺は、その後、豊臣秀頼の寄進などにより再建されたものである
松尾寺案内図


Snap shot
惣門橋 参道の入口にある
写真は反対側から 後方が参道になる
首堂 こうべどう(奥の小堂)。
源義経が一ノ谷合戦の戦死者の首を当寺に送り、この地に葬り亡魂の菩提を弔ったと伝わる。
山門 左に持国天、右に増長天 念仏堂
宝物殿 寿老人堂。南海電車の沿線にある寺社で構成されている七福神めぐりの1つ。
本堂の前にある三天堂。
大日如来、阿弥陀如来、松尾明神、穀聚三天尊、三所権現などを祀る。
本堂
本堂 不動尊堂
長諭(ちょうゆ)和尚顕彰碑。天正9年、織田信長が、全山を焼き討ちにした折、81歳の長諭和尚が本尊のほか百数十点の寺宝を持って、堺の念仏寺へ難を逃れたという。長諭は「松尾寺破滅記」を記している。 伝教大師(最澄)幼形像 天台宗の開祖である。
春日神社
松尾寺に隣接してます
割拝殿の形式の様です
松尾寺公園
松尾寺のヤマモモ
大阪府指定天然記念物
樹齢250年、樹高15m、目通り幹周3.3mと記されている
明王院 本尊 毘沙門天 天台宗

朱印

kazu_sanの一言
惣門橋から楠の大樹が見えました

この木何の木気になる木〜
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